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小説家は小説をどう読むのか? 『小説の読み書き』

小説の読み書き佐藤 正午
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この本は企画を思いついた編集者のアイデアの勝利でしょう。
プロの小説家は他人の書いた小説をどう読むのか? ただの読者とは違う、小説家の読み方、書き方とは? 小説家でない多くの本読みにとって、これはもう、好奇心がわきます。この本の存在を知ってすぐにアマゾンで注文しました。真っ先に読みました。

小説家の佐藤正午が、川端康成、志賀直哉、森鴎外、永井荷風、夏目漱石といった大家の作品を読んで感想文を書いていきます。やはりただの読者とは視点が違います。普通の書評や感想文は、書いてある内容や筋書き、主題を語ることに主眼を置いていますが、文体にやたらとこだわっています。まぁ文体を重視した書評も世の中にはありますが、「自分だったらどう書くか」という視点をもてるのは、やはり小説家だけでしょう。

三島由紀夫は耳が良くて、音にこだわって書く。太宰治は読点を打ちまくる、つまりここで息継ぎしなさい、と作者が細かく指図する。逆に中勘助は読点を全然打たず、素のままの文体で『銀の匙』を書いた。井伏鱒二はきれいにまっすぐに書かずにあえてねじ曲がるぐらいにカーブをかけて書く。文体に、細部に、とてもこだわって読んでいるのです。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。
(略)
 わざわざ隠喩を用いるくらいだから、川端康成の頭の中には、夜の底と書く以前にたとえば地面や、あたり一面や、見渡すかぎりや、野も畑もや、他にもいま僕には思いつけないフレーズが様々浮かんでいたはずだということである。その様々あった中から、川端康成は夜の底という表現を一つ選んで、そして原稿用紙に書いた。なぜか?
 なぜならそれが書くことの実態だからだ。
 雪国、と書くとき、作家はすでに他の様々な候補、たとえば新潟県や越後や湯沢温泉の中から「雪国」を選び取っている。夜の底、と書いたとき、すでに川端康成の頭の中では、地面と書くのはよくない、あたり一面と書くのもよくない、という取捨選択の作業が終わっている。地面と書くのはよくない、と頭の中で一瞬でも考えることは、考えてその表現を捨てることは、それはいったん地面と書いたものを別の表現に書き直すことと同じである。地面と書いては捨て、あたり一面と書いては捨て、最終的に夜の底と書く。それが書くことの実態だ。そう考えると「書く」ということはとどのつまり「書き直す」と同義語になる。とどのつまりと言うよりもむしろ、そもそも、第一義的に、二つは同じものになる。
この本を読んで、やはり作り手視点の読みは面白いな、と思いましたね。文芸評論家の視点とは明らかに違うからです。けれどもそれは別に、作り手の視点が特権的に正しいという事ではありません。

作り手が鋭い読み手たりえるのは、2つ理由があります。1つは創作に関する知識と経験を持っているからです。もう1つは作り手が「同じ悩み」を共有し得るからです。同じ悩みを持った人であれば、その作品の示した「解」の価値をより強く理解できます。もちろん逆に、同じ悩みを抱いたことがなければ、「解」の価値は理解できないでしょう。

つまり、作り手視点の読みは、その人が「執着」している箇所が如実にわかるのです。ある作品の批評でありながら、結局、自分がどういう部分を重視しているかという、自己言及になるのです。

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テーマ:ライトノベル - ジャンル:小説・文学

タグ:佐藤正午  小説の読み書き  

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